エッセイ |
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今昔おもしろ養生訓10
| 心臓病の妙薬
江戸時代初めの天草。
重税と度重なる飢饉(ききん)に疲れ切った農民の前に、天草四郎と名のる一人の少年が姿を現した。
四郎は気高い美貌(ぼう)と数々の奇跡によって、たちまち噂(うわさ)の“善(よ)か人”の座を獲得する。
その人気たるやアイドル歌手も顔負けのものすごさ。スーパースターの誕生である。
さて、天草四郎の姿に心ときめかせたり、隠れキリシタンとして苦しい思いをする時のココロは精神的なもの。
だが恋でもないのに脈が速くなったり、胸を締めつけられるような痛みが走るとなると、これは心臓の方の病である。
しかし昔は、心臓こそが体の中心であり、ココロと心臓は一緒だと信じられていた。
古代ギリシャの大哲学者アリストテレスでさえ、
心臓には生命が宿っており、心臓の熱を肺や脳が冷やしていると考えた。
下って中世キリスト教世界では、ローマ時代の医師ガレノスの説が絶対的な権威を持つようになった。
彼はこう説いている。
血液は肝臓で作られ、潮の満ち引きのように心臓に吸い込まれていく。
さらに心臓は肺から精気を受け取り、生命霊気をつくる。
血液が霊気を帯びることによって、人間は霊性を保てるというのだ。
おかしな説だが、動脈(Arteria)という言葉は、ギリシャ語で空気の通る道を意味する。
このことでも分かるように、もともと動脈は血液を通すものではなく、
空気あるいは精気を通ずるものと思われていたのである。
笑ってはいけない。日本でも養生訓の元祖・貝原益軒は、気血という表現を用い、
気が停滞することによって病気になる、と著書の中で述べている。
そんな古い考えを打ち破るべく登場したのがウィリアム・ハーベイであった。
彼は一六二八年(島原の乱の九年前)、心臓は肺と全身の血液の循環をつかさどる器官で、
この働きは収縮によるものだということを発見した。
ここに至って、ようやく心臓とココロの区別がついたのである。
それから四百年後の今日、心臓病は脳卒中、がんとともに最もポピュラーな病気となった。
心臓病の妙薬として、球磨郡誌にはアマガエルの生食が紹介されている。
しかし、こんな物を食べたら心臓がよくなるどころか、ショック死しかねない。
それよりも、ここ天草に新しい切り札が登場した。
安くてうまい魚のエース鰯(いわし)である。
鰯にはコレステロール値を低下させ、動脈硬化防止によいEPAという高位不飽和脂肪酸が多く含まれている。
牛深市の漁協に頼むと、一箱千円で送ってくれるから、これを利用しない手はない。
天草四郎は救世主になりそこねたが、今度は天草の鰯が私たちの心臓を守ってくれることだろう。
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今昔おもしろ養生訓9
| 右と左の関係は
あらしのように押し寄せてくる吉岡道場の門弟たち。
立ち向かう宮本武蔵の手には、いつしか二つの剣が握られていた。
「右手の太刀は血塗られて柄糸も拳も血漿で鮮紅に染まり、左の小刀はまだ切ッ先が
少し脂に曇っているだけで、まだ幾人かの人間の骨に耐え得る光をしていた。
だが武蔵は、二刀を持って敵と闘いながらも、まだ二刀を使っているという意識などは全然ないのである」
吉川英治原作「宮本武蔵」の、有名な一乗下り松の場面である。
二天一流の祖として名高い宮本武蔵は晩年、細川家の知遇を受け、「五輪書」や多くの絵画・彫刻を残した。
この武蔵が実は左利きだったのではないかという説がある。
一般に左利きの人は、スポーツ選手や芸術家に向いているといわれている。
脳は左右で役割が違っていて、論理的な思考をつかさどるのは左脳で言語脳、
右脳は感覚的なことを受け持ち音楽脳と呼ばれている。
右利きの人は左脳が優位脳になる。
だが、左利きの人は利き腕が視空間認知をつかさどる右脳の支配を受けている人が多いので、
物の形、位置を捕らえる仕事には有利というわけだ。
ところで武蔵像などを見ると右手に太刀を持っており、右利きに見える。
これには理由があって、刀というものは左の腰に差し、右手で抜くようになっている。
だから、たとえ武蔵が生まれつき左利きだったとしても、右利きに矯正しているはずだからである。
それなら絵はどうか。絵なら左手で描くことも可能だろう。
左利きの画家としてレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ピカソらがいる。
武蔵の傑作「枯木鳴鸚図」には、左手で描いたと思われる部分があるらしい。
もちろんこれだけでは確証にならないが、利き腕と脳とは密接な関係があるので、
武蔵に限らず左右差を考えることは、大変興味深い。
例えば右手を説明するとしよう。
「はしを持つ方の手」とか「心臓と反対側の手」とかいう表現は、
左利きのて、右胸心(右に心臓のある人)もいるので適切とはいえない。では右とは何なのか。
辞書によると、右とは「日の出る方へ向かって南の方」、左は「人が南を向いたとき、東に当たる方」となっている。
ちなみに南とは「日の出る方に向かって右のほう」というのだから、何だかだまされたような気分になる。
この説明でいくと、遠い将来日の昇らない宇宙で暮らす人類には、左右の概念がなくなっているかもしれない。
このように右と左の話を始めると、迷路に迷い込んでようにきりがなくなってしまう。
そこでこの問題に取りつかれた人は皆、右往左往することになる。
しかし、やがて有効な手掛かりが見つかるだろう。
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今昔おもしろ養生訓8
| 若さを保つひけつ
家に引きこもり物思いに沈んでいた小野小町は、明るい日差しに誘われ、ふと目を上げた。いつの間にか桜の花が散りかけている。
花の色は移りにけりない
たづらに我が身世にふる
ながめせしまに
平安朝の歌人・小野小町は、父の良実が讒言(ざんげん)によって肥後国植木に流された時生まれた子だという。この地にわき出る清水で産湯をつかり、長じて並ぶものなき美貌(びぼう)をうたわれるようなった。
若いころの小町は深草少将をはじめ多くの男たちと浮名を流したが、老いてからは零落し、乞食(こじき)になったといわれる。行き倒れた末、どくろの目の穴からススキが生えて、「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と泣いているところを、在原業平が通り掛かり、「をのとはいはじ薄生いけり」と下の句をつけてやったという話が残っている。天下の美女が老いさらばえていく姿を見るのは、何とも残酷でもの悲しい気分になる。
いつまでも若くありたい、というのは人間の永遠の願いである。秦の始皇帝は薬を求めて、徐福を神仙の国に遣わしたが、これは見事に失敗した。ところが変わらぬ若さを手に入れることに成功した人もいるらしい。若狭の国の白比丘尼は、人魚の肉を食べて八百歳まで若さを保ったという。古来、回春剤としては地黄、鹿茸、イモリの黒焼きなどが知られている。しかし、これはどれも調合が難しい。もっと簡単な方法がないものだろうか。
ここで一つヒントになる話を紹介しよう。古代ギリシャ・テーベの山奥に住むスフィンクスは、道行く人に「朝は四脚、昼は二脚、夜は三脚で歩く動物は何?」という謎(なぞ)を出し、解けない者を食べていた。ある時、オイディプスという青年が、「それは人間である。幼いときは四つんばいはい、成人になって二本足で立ち、老いては杖をついて歩く」と答えたため、スフィンクスは身を投げて死んでしまった。
考えてみると、年齢によって歩き方が変わるのは人間だけである。年を取ると腰が曲がり、ひざがガクガクするのは人間の宿命とあきらめず、せめて姿勢だけでも若々しくしていたい。
それには骨がもろくなるのを防ぎ、カルシウムの吸収率のよい牛乳をとることをお勧めする。さらに筋肉を丈夫にし、心臓の働きが活発になるよう適度な運動も忘れずに。一日最低二キロは歩くように心掛けるとよいだろう。さらに付け加えると、趣味や生きがいを持ち、若い人に接することは、ボケの防止にもなるし、精神的にも若返ることができる。
花は散るからこそ実がなるものである。小町のように若さが失われることを嘆くより、実のある季節を楽しむことが若さを保つひけつと言えそうだ。
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今昔おもしろ養生訓7
| 女盛りにご用心
装飾古墳の点在する山鹿風土記の丘。中でもチブサン古墳には
三角印の文様に交じって、ひと際目立つ目玉とも乳房ともとれる絵がある。
何ともユーモラスな形だが、昔はお乳の神様として信仰を集め、
甘酒を供える習わしがあった。
この古墳ができたころか、それより前の時代。海幸彦、山幸彦について、
こんな神話が残っている。
海神のお陰で無事海幸彦の釣り針を見つけ出し、
国に帰った山幸彦の元へある日、海神の娘で妻の豊玉姫がやって来て、
「もうすぐ赤ちゃんが生まれそうなんです。ここで産んでもいいかしら」と言い出した。
山幸彦は慌てて海辺に、鵜(う)の羽で屋根を葺(ふ)いた産屋を建て始めたが
間に合わない。まだ出来上がらないうちに妻は産気づいてしまった。
「今から産み始めますから、中をのぞいては駄目よ。」そう言い残し、姫は産屋の中へ。
ところが、見るなと言われると余計見たくなるのが人の常である。
山幸彦がのぞくと、中には何と八尋(ひろ)もの大鰐(わに)がいるではないか。
招待を見られた姫は悲しみに暮れ、子供を残して海に帰って行った。
この時の子は、まだ屋根が完成しないうちに生まれたというので、
鵜慈草茸不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられた。
神武天皇の父といわれる人である。
お産は女性にとって人生の大事業。男性には経験できない神秘の世界であるが、
それだけに苦しみも多い。源氏物語にも、光源氏の正妻葵の上が、
夕霧を出産する際、六条御息所のもののけに苦しめられる様子が描かれているが、
このような難産で命を落とす者は数知れなかった。
難産を救う方法として、子宮を割いて子を取り上げる、いわゆる帝王切開が
試みられるようになったのは、江戸時代も末、嘉永五年(一八五二年)秩父で
伊吉田純道によって行われたのが最初である。
県内では明治十八年(一八八五年)、公立人吉病院(現人吉総合病院)での記録であり、
これは日本では6番目の試みであった。残念ながら手術は成功したものの、
子は死産、母親は翌日心不全で死亡している。
女性の病気といえば、もうひとつ忘れてならないものに乳がんがある。
享和四年(一八〇四年)に華岡青洲が麻酔薬、通仙散を使って日本初の
全身麻酔による手術を行ったのが乳がんの老女勘に対してだった。
乳がんは子宮がんとともに年々増加傾向にある。
三十歳過ぎたら定期健診を受けるようにしたい。
特に乳がんにおいては自己検診法をマスターしよう。
まず乳房の形を見てひきつれがないか確かめる。
次に片手を上げ、円を描くように触っていく。しこりがあったら要注意。
良性のものも多いので、怖がらず精密検査を受けるように。
女性はますますきれいになり、女盛りは四十歳からと言ってもおかしくないが、
この年代から病気も増える。女性の敵は自分の手で見つけよう。
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今昔おもしろ養生訓6
| つまみ取り時間かけて
忘年会、新年会と飲酒の機会も多かったことだろう。
冬は酒のおいしい季節。燗(かん)は人肌よりやや熱め。
冷めないうちにきゅっと飲む。焼酎(しょうちゅう)も捨てがたい。
球磨焼酎といえば日本一のブランド。熊本に生まれてよかったと思う。
杯の中で酒が揺らめくのを眺めていたら、
ふと山頭火の「ほろほろ酔うて木の葉ふる」の句が浮かんできた。
漂泊の詩人、種田山頭火は熊本で額縁店「雅楽多」を営んだ後、
大正十四年報恩寺で得度、出家して植木町味取の観音堂の堂守となった。
しかし翌年から諸国行脚の旅に出る。
彼は終生酒を愛し、一方で慢性アルコール中毒に悩まされた。
酒は飲んでも飲まれるな。身を滅ぼすような飲み方は慎みたい。
気分よく飲むにはコツがいる。
後に残らないためには、清酒はおちょうし一本、ビールも一本まで。
しかも、ゆっくり時間をかけて飲むほうがよい。
三本になると手付きが怪しくなり、理性が欠けてくるので、
思わぬ失敗をすることになる。
さらに四本を越えると(ウィスキーならボトル三分の一以上)、
急性アルコール中毒となって、救急車のお世話になりかねない。
しかし、どうしても飲みたいという人は、さらにもう一工夫必要だ。
まず宴会の前に牛乳を飲み、胃粘膜を保護しておく。
次におつまみだが、酒は意外とカロリーがあり、ビール一本がご飯一杯に相当するので、
成人病予防の面から油物は避け、納豆、海草サラダなどを取るようにする。
おせち料理とかなべ物はバランスが取れているので、お勧め品だ。
おかずをとらず酒だけ、というのが一番いけない。
たちまち肝臓をやられてしまう。そして夜九時以降は、
トマトジュースやウーロン茶に切り替えよう。
それでも飲みすぎたら二日酔いになる。二日酔いになると血糖値の低下、
電解質のアンバランス、脱水などの症状が現れてくるので、果物を取り、
はちみつを湯でといたものを飲むとよいだろう。
正月疲れの胃をいたわり、ビタミン補給の意味からも
七草粥(がゆ)は理にかなっている。
先人の知恵はたいしたものだ。
ところで鹿児島県大口市の郡山八幡神社には、永禄二年(一五五九年)の日付入りで、
「その時の座主は大層けちで、一度も焼酎を腹一杯飲ませてくれず、非常に迷惑なことだ」と、
大工が住職(八幡神社神宮寺の住職か?)を恨んで書いた落書きが見つかっている。
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今昔おもしろ養生訓5
| “甘くない”糖尿病
昼は会議、夜は接待で忙しいサラリーマンA氏は、朝食は取らず、
眠気覚ましに砂糖入りのコーヒーをがぶ飲み。体を動かすのはゴルフの時だけで、
太った体にストレスをため込んでいる。
ある日A氏が倒れた。血液を調べると、血糖値が500mg/dl以上になっている
(正常は150mg以下。)糖尿病と診断され、緊急入院となった。
所変わって平安時代の京都。藤原道長の住む土御門邸では、道長の娘威子と
後一条天皇の婚礼を祝う宴の真っ最中である。道長は三人の娘を、
それぞれ天皇の后(きさき)に送り込み、今や天皇家の外戚(せき)として得意の絶頂にあった。
十月十六日の月は中空に光を放っている。皆の酔いがまわり、
宴たけなわのころ、道長は歌を詠んだ。
此の世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思えば
しかし、満ちた月は必ず欠けていく。翌年から病がちになり、顔色はすぐれず、
ひどくのどが乾くようになった。飲水病(糖尿病)で目がかすみ、背中のはれ物が悪化、
ついに六十二歳の生涯を閉じた。望月の歌から九年後のことである。
道長のころは一日二食で新鮮な野菜は少なく米中心の食事。粗末な割りには
カロリーが高かった。そのうえ夜型の生活で権謀術数に明け暮れ、
ほとんど運動をすることがない。しかも道長の家系には糖尿病の者が多かった。
これでは病気にならない方がおかしいくらいである。
道長と同じように糖尿病で苦しんだのは北原白秋。柳川の酒造家の息子だが、
母シゲの実家の南関町で生まれている。白秋は糖尿病と腎臓病による
眼底出血のため視力が落ち、晩年は薄明の生活を余儀なくされた。
ところで糖尿病のことをdiabetes mellitusと言うが、diabetesとはギリシャ語で
サイフォン、mellitusはラテン語で蜂蜜(はちみつ)の意味。糖尿病の人は
「尿をまるでサイフォンで水を吸い出すように出し、しかも血と尿は蜜のように甘い」ことからきている。
糖尿病は初期には自覚症状が少ないのが特徴。何となく体がだるい、
おできや傷が治りにくくなった、すぐ風邪をひくといった程度であることが多い。
しかし長い間には真綿で首を絞めつけるように、少しずつ血管がやられていく。
ついには失明したり、手足が腐ったりする恐ろしい病気なのである。
治療としては食事療法と運動が主となるが、これも自己療法は失敗のもととなりやすい。
道長は目の衰えを防ぐため、それまで精進料理ばかりだったのを
五十日だけ魚を食べるようにした。
しかし、不十分で偏った食事療法では回復はおぼつかなかった。
やはり医師の指導を受け、根気よく続けなければ効果は期待できないのだ。
嘗(な)めると甘いが、舐(な)めたら怖い病気。それが糖尿病なのである。
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今昔おもしろ養生訓4
| 恋患いも命がけ
お釈迦様でも草津の湯でも、恋の病だけはどうにもならぬものらしい。
浅草の大店の娘きくは、紫ちりめんの振り袖を着て参詣に行った。
そこで美しい若衆に一目ぼれ。しかし、かなわぬ思いに恋心は募るばかり。
身はやつれ、恋患いはやがて労咳(ろうがい・肺結核)へ進み、十六歳の若さで世を去った。
ところが形見の振り袖は、その後二人の娘の手に渡り、命を奪ってしまう。
驚いた親たちは、振り袖を施餓鬼のうえ燃やすことにした。しかし折からの烈風に乗って、
火の付いた振り袖は屋根に飛び移り、みるみるうちに江戸市中を焼き尽くし、
江戸城天守閣も焼失したという。
これが有名な明暦の大火、別名振り袖火事である。
物思いの末、食事ものどを通らずやせてくるとなれば、今ならさしずめ拒食症というところ。
だが、昔は栄養状態が悪かったから、たちまち結核のとりことなった。
結核にかかった人物といえば、新撰組の美剣士、沖田総司を思い浮かべる人もいるだろう。
色が白く、ハンサムな主人公はなかなか絵になる。しかし現実は厳しい。
ひとにうつらぬようにくらい部屋に一人寝かされ、衰弱して死んでいく者も少なくなかったに違いない。
また思春期の子女に多いことからノイローゼと混同され、気鬱(うつ)症と言われたこともあった。
大流行した元禄期には、それまで美人とされた瓜実(うりざね)顔(つまり坂東玉三郎のような顔)は
病的として敬遠され、丸ぽちゃの女が健康的でよいともてはやされた。
時代と共に美人の基準も変わっていくのである。
長いこと不治の病とされた結核に本格的に取り組んだのが、小国町出身の北里柴三郎である。
コッホに学び、同二十六年(1893年)、結核療養所として土筆ヶ丘養生園を開園した。
結核予防会が設立されたのは昭和十四年(1939年)。
特効薬ストレプトマイシンが発見されたのは同十九年(1944年)だから、化学的な治療が施されるように
なったのは戦後からと言ってよい。
県内では、大正十一年(1922年)に三角町の戸馳保養園の開園を皮切りに、
再春荘病院が昭和十七年(1942年)から現在まで結核治療の中心となっている。
再春荘の難波煌冶・副院長によると、以前患ったことのある人が高齢になり、
免疫力の低下と共に再発するケースが増えているとのことである。
また出産後、微熱が続くときは要注意。
妊娠中は肺が圧迫されているため結核にきづかないことが多いが、出産して急に悪化することがある。
再発率は三%。治ったようでも油断は禁物とのことであった。
結核は過去の病気ではないのだ。
とにかく恋も結核も忘れたころにやってくる。ゆめゆめ深みにはまらないように。
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今昔おもしろ養生訓3 |
“美人”で治す白内障
何が困るといって、目の見えぬことほど困ることはなさそうだ。
大昔からだれの思いも同じらしく、平安時代の絵巻「病草紙」に早くも眼医者が登場する。
大和の国に、目が薄くなったことを嘆いている男がいた。
とある日、妙な男が一人玄関に入るなり、「我は眼の病を繕う医者なり」と言う。
これはこれは神仏の助けかと喜んだ目の悪い男は、早速医師を招き入れ、
治療してもらうことにした。
眼医者を名乗る男は、向かい合って座ると目を大きく開かせ、「よしっ」とばかりに
黒まなこに針を立てた。「あいたたっ」。噴き出す血を尻目に、「今に良くなる」と
言って礼金をもらい、さっさと立ち去ってしまった。ところがどっこい、
目を追うごとに悪くなるばかり。ついに潰れてしまった。
まさに弱り目にたたり目とはこのことである。
この当時の白内障の手術は、濁った水晶体(レンズ)を針で突いて
目の中に“墜落”させるといった、かなり乱暴な方法だったから、よほどの名医でなければ、
術後に炎症を起こして失明してしまっただろう。
まあ、この当時は見えるようになるといっても明暗が分かるくらいだが、それでもやはり、
ありがたかった。昔の医者は、何とか安全で確実に手術をやれないものかと
思案を重ねてきた。しかし、答えは思いがけないところからやってきた。
江戸末期、一人の男が長崎の港に降り立った。ドイツ人医師シーボルトである。
彼は皆の見ている前で、散瞳薬(瞳を開く薬)を使って白内障の手術を成功させ、
世間をあっと言わせた。この時彼が使った薬がペラドンナ。イタリア語で美人の意味である。
この薬を幕府御典医・土生玄碵が欲しがり、代わりに将軍下賜の、
紋の付いた羽織をやったことから、後のシーボルト事件に巻き込まれることになった。
シーボルトは国外追放、玄碵は永久蟄居(ちっきょ)の身になったが、
これを機に大いに手術が進歩したのである。
しかし白内障だけが目の病気ではない。「もっと光を」とはゲーテの言葉だが、
ここにもう一人光の欲しい人間がいた。五高教師だったラフカディオ・ハーン、小泉八雲である。
彼は幼いころ、遊んでいる時に誤って左目を傷つけ、失明していた。
さらに右目も高度の近視で、八雲は目を大切にすること、ひとかたならぬものがあった。
松江から熊本に移ったのも日本海の寒さから目を守るためであったという。
八雲ならずとも目の不自由な人は多い。そこは困った時の神頼み。
目の神様といえば、山鹿などに生目神社がある。平景清を祭ってあり、
「景清く照らす生目の鑑山、末の世までも雲らざりけり」と唱えるとよいらしい。
まあ、何事も用心が一番。
「美人」の世話にならぬよう、早めに本物の眼科へ行かれることをお勧めする。
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今昔おもしろ養生訓2 |
ある日の午後、小学校の男の子が母親に連れられて診察室にやってきた。
最近、家の中でゴロゴロばかりして、ちょっと動いてもすぐ息が上がるらしい。
手足もはれぼったいし、顔も少しむくんでいるようだ。どうやらカギっ子らしいが、
いつも何を食べているのだろうと、まず疑問に思った。「私が忙しいものだから、
ついインスタント食品とかラーメンなんかの外食が多いんです。ジュースもよく飲んでいるみたい。
でも先生、それは関係ないでしょう」
ところが、それが大ありなのだ。ビタミンB1不足で起こる脚気(かっけ)。
過去の病気と思われるかもしれないが、これこそ最近注目を集めている
「下肢浮腫(浮腫)を伴う若年性多発性神経炎」の正体なのである。
明治十年、西南戦争の真っただ中。熊本城にこもって薩軍と戦う鎮台兵の間に手足のしびれ、
下肢のむくみを訴える者が続出した。
さかのぼって江戸時代、「江戸患い」とか、中風とまぎらわしい「ヨイヨイ」と呼ばれ、
箱根の山を越えると自然に良くなる風土病があった。これも不治の病とされた脚気なのだ。
徳川五代将軍綱吉もこの病にかかり、馬のつく場所が良いとの占い師のお告げで練馬に転地。
大根畑を作って、侍女たちと戯れながら素足で土踏みをしているうちに、さすがの難病も全快。
練馬大根だけが名物として残ったというエピソードがある。
これなどは、ぜいたく好きの将軍様が白米ばかり食べていたせい。そんなことは加藤清正が
「食は黒米(玄米)たべるし」と、とうに気づいていたことなのに、明治の鎮台兵は、
せっかくの玄米をすべて精米してしまい、ビタミンB1を削り取ってしまっていた。
一日六合あまりの白米に、ほんの一握りの副食しか食べないものだから、官軍に限らず薩軍の間にも大流行。
太平洋戦争後の時代まで、脚気は国民病と言われて蔓延(まんえん)していた。
ところで、実はこの古くて新しい病気に効果てきめんの郷土食があるのだ。
県北で見かける「とじこ豆」。大豆をいって黒砂糖、麦粉を入れて作る。
保存もできるし、格好のおやつともなる。
蕎麦(そば)も良い。蕎麦切りなどはいかがだろう。おかずにはひともじのぐるぐるや、
やはりビタミンB1の豊富な豚肉を使った一品を。
球磨地方ではイノシシ肉のみそ漬け、しょうゆ漬け、炊き込みなど、いろいろな食べ方が工夫されている。
もっと簡単にと言う人にはホウレンソウのごまあえなどがお勧め。
要はバランス良く食べることだ。将軍様はいないし、戦争中でもないが、今の日本はグルメ時代。
ごちそうを食べ過ぎて脚気に捕まらぬように、時には栄養バランスのとれた
郷土食にもチャレンジしてはどうだろう。
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今昔おもしろ養生訓1 |
腹の虫をなだめる話〜大食控え心に栄養補給〜
上司の視線が気になるサラリーマンの中には、胸焼けやゲップをこらえながら腹をさすり、
こんな一節を思い出す人も多いだろう。
「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。
兎角(とかく)に人の世は住みにくい」(夏目漱石「草枕」)
宮仕えも楽じゃないが、だいたい世の中、腹の立つことが多すぎるかもしれない。
ときには痛くもない腹を探られたりするし、妙な勘ぐりをされることもある。これも世の習いとはいえ、
イライラすると、どうも腹にこたえるようである。これにはちょっと訳があり、怒ったり感情が高ぶると
(俗に頭に血が上るという)、交感神経の作用で胃粘膜の血流の方がおろそかになる。
副交感神経の働きで胃酸(塩酸)はたくさん出るから、自分自身の攻撃因子から自分の意を守れなくなるという寸法。これが続くと、最後には胃に穴が開くということになる。
漱石も、やはり胃には悩まされたらしい。自身をモデルにした「吾輩は猫である」の苦沙弥先生も、
やはり胃弱で、タカジアスターゼを愛飲している。県内には赤玉腹調丸(菊水町)、タイシー胃腸薬(熊本市水前寺)
などの胃腸薬があり、漱石も飲んだことがあるかもしれない。しかし彼の胃は、そんなことでおとなしくなるような
代物ではなかった。四十歳過ぎたころから潰瘍(かいよう)の形を取り始める。
明治四十二年、胃腸専門として名高い長与病院に入院したものの、天下の大病院も、当時の治療としては
硝酸銀を飲み、コンニャクで腹を蒸すくらい。何とも頼りない限りであった。再発を繰り返し大正五年、
潰瘍が原因で亡くなった。さすがの大文豪もストレスには弱かった。それでは何か良い知恵はないものか。
「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、
束の間でも住みよくせねばならぬ」と、これも「草枕」の一節。
その方法として、漱石は芸術を勧めている。美術展に音楽鑑賞、あるいは読書で静かに夜を過ごし、
心に栄養を補給したい。
一方、大食は潰瘍の基ともなるから、少し控えめにして、ここはひとつ温泉にでもつかっては。
それ自体飲用し胃腸に効くものもあるが、(菊池、河内、赤瀬温泉など)、何より気分的にリラックスできるのがうれしい。垢(あか)と共に世間の憂さも流れて行ってしまう。
「腹の虫」を大事にしておかないと、怒り出してからではなだめるのに一苦労することになる。 |
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